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相互リンクURL変更のお願い

 投稿者:KUBO  投稿日:2016年 8月14日(日)13時13分35秒
  >坂上様

 ご無沙汰しております。「KUBOの家系城郭研究所」の管理人KUBOです。この度
@niftyの@homepageサービス終了に伴いサイトを移転致しました。つきましては
リンクURLの変更をお願い申し上げます。

旧:http://homepage1.nifty.com/t-kubo/
新:http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/

 それでは今後ともどうぞよろしくお願いいたします。失礼致します。
 
 

本名,蒲池です。

 投稿者:see  投稿日:2016年 3月 3日(木)06時10分12秒
  物心ついたとき蒲池君と言われ学校で先生も名前を読めなくて、大人になって自分のルーツをたどり兄から柳川の分家の山下城の流れだと聞きました。今さらびっくり。蒲池の名前に恥じぬように生きていかなければご先祖様に申し訳がない。  

蒲池家の墓

 投稿者:本家?  投稿日:2013年 4月 5日(金)22時05分37秒
  鎮なみ公の子孫と伝えられてる者です。

蒲池家の墓がおごもり山?という山にあると祖母から聞いたのですが、ネットで調べてもおごもり山という山はヒットしません。
忠見の前と聞いたのですが筑後に住んでる方でご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?
 

先祖塩塚のルーツ

 投稿者:八女の塩塚メール  投稿日:2012年 2月26日(日)23時59分41秒
  こんばんは!!はじめまして!八女市に住んでおります塩塚と申します。ネットで検索していたところこちらへたどりつきました。
私の塩塚の総本家は山下城の登り口近くにあります。
戦国時代に落ち武者で逃げてきたのが先祖ではないか?と言い継がれています。
家紋は左三つ巴だとおもいます。
自分は筑後戦国史という本で蒲池氏とかかわりがあったと知りました。
旧大和町塩塚にある塩塚城跡や塚のあった所の御寺さん(塩塚さん)などを訪ねました。
情報があれば御知らせ頂きたいです。宜しくお願い致します。
 

武家屋敷豊増家の門

 投稿者:水彩画家豊増良雄メール  投稿日:2011年 2月18日(金)11時41分54秒
  豊増良雄ネツト美術館http://tyms.sakura.ne.jp/

佐賀市重要文化財(P1)武家屋敷豊増家の門http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=3489

http://tyms.sakura.ne.jp/

 

先祖調べ

 投稿者:今村家子孫 メール  投稿日:2010年 5月 3日(月)18時08分4秒
編集済
  先祖名が分かりません。

先祖は1601年(慶長6年)に津村三郎左ヱ門と共に大野島(平尾島)に入植したと言われている今村です。入植した場所は五家(ごか)と言われています。家紋は「丸に木瓜」です。

子孫は天明かそれ以前に小佐井という武士の株を買い、士分となったそうですが、たちまち没落したそうです。墓地は掘り返されて今はありませんので、入植初代の名と、その出自が分かりません。小佐井を立てるに当たり、今村姓を残すため、天明2年に逝去した平吉の内儀に今村を継がせたそうです。平吉よりの経緯は総べて判明しております。

秀吉や家康の動向により、行き場の無くなった蒲池系の今村が入植したのではないかと想像しておりますが、どなたであろうとも真面目にお教え戴ける方でしたら、有難く拝聴いたしたく存じます。宜しくお願い申しあげます。
 

福岡の歴史上の人物

 投稿者:塩塚メール  投稿日:2009年 6月21日(日)12時36分1秒
  私が住んでいる福岡には幕末にも出てくる多くの歴史があります。私のマンションから歩いて約10分の所には隠棲生活をおくった野村望東尼の「平尾山荘」。

ここでは勤王の志士など幕末の頃、この福岡藩の平野次郎国臣、高杉晋作などの隠れ家として利用されたといいます。

また近代では中野正剛。東京裁判で処刑された戦前の首相広田弘毅。氏は東京裁判にて一言の弁明もせずして処刑されました。氏は石屋の子に生まれ、書の才能は素晴らしいものがあり、天神横町の水鏡天満宮の鳥居の字は氏が書いたものといわれます。

その他たくさんの歴史上の人物が輩出され、語るに尽きないほどです。
 

秋月

 投稿者:塩塚メール  投稿日:2009年 6月 3日(水)18時16分27秒
  秋月の志鶴家老話が出ていますが、私が知っているのは春は桜の花が満開。ひっそりとした静かな麓の町です。ここには若いときから何度も行きました。

だんぐ庵、城跡の中学校の校舎、眼鏡橋、切腹をした岩、墓などがありますが、郷土史家に志鶴家老のことを聞いてみましたが、思い当たる答えは返ってきませんでした。

私が秋月に興味を持ち、郷土史家を訪ねてみましたのは、明治9年?「秋月の乱」が起こりました。この当時明治新政府への新政策に反対すべき立ち上がったのです。

この当時は佐賀の「江藤新兵の乱」、萩の「前原一誠の乱」そして最大の西郷隆盛の「西南の役」(『翔が如く』・文藝春秋・司馬遼太郎)などが頻繁に発生しました。

明治維新が終わり、時代の流れに興味を引いたからです。
 

少年でも強姦殺人は死刑に

 投稿者:正しく裁判  投稿日:2009年 2月22日(日)15時30分39秒
  「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」を裁判員でやり直そう。
   ---------------
湊伸治(当時16才)は横山祐史(当時 宮野裕史18才)と
プラスチック工場で働いた帰りの女子高校生を、夜8時過ぎ
足立区綾瀬の路上で誘拐、湊の家(両親も住む)に40日監禁、
神作譲や渡邊恭史ら多くの少年が集まり集団暴行を繰り返した。
ストリップダンスをさせ、全裸になると皆でいっせいに強姦し、
尿を飲ました。女子高生が逃げようとしたり命令に従わないと
背中や乳首に揮発性オイルを塗って火を着け、笑い転げた。
裁判では性器を灰皿代わりにしたことも指摘されている。
ドラム缶に入れられた遺体には性器にスポーツドリンク瓶が
突き刺さってり、栄養失調で痩せこけていた。
犯人=少年が刑務所で服役したのは6年半~4年、主犯の宮野は
ほかに婦女暴行10件以上(被害者との示談を除く)と合わせて
服役し、平成19年2月2日千葉刑務所を仮出所した。

横山 祐史(宮野裕史):S45年4月30日生 身長160cm
     H22 取手市の宮野静江(実母)経営のフトン屋に勤務
神作 譲(旧姓は小倉):S46年5月11日生 身長約190cm
     再犯して服役していたが、H20年末に仮保釈された。
     足立区千住4丁目5-14 藤善コーポ に住む
湊 伸治:S47年12月16日生  リュヒテンシュタイン人と結婚。
    両親=湊 靖人、ます子:京都市伏見区向島住宅にいた
    兄=湊 恒治(S47年1月21日生)
渡邊 恭史:S46年12月18日生 目の病気、母親は渡邊ヤス
相田 孝一(旧姓は垣東):S46年生 長女はH21年3月に中学卒業
     H18年4月、妻と偽装離婚し再婚、妻の旧姓に改姓
 

Re:塩塚の由来

 投稿者:しお塚  投稿日:2008年12月21日(日)22時23分52秒
  長谷川さんはじめまして。大川市出身のしお塚と申します。
かなり時間が経っていますのでご覧になられているか分かりませんが、
私の知っている範囲で投稿したいと思います。
地名の由来の件ですが、柳川市の「塩塚」は
角川日本地名辞典によると「元亀・天正年間頃、
塩塚鎮貞が塩塚城主として居城したことによる」とあります。
ちなみに、「塩塚」という地名は、国内にいくつか見られるようで、
石川県石川町、奈良県奈良市、徳島県、愛媛県伊予市、佐賀県鳥栖市、
福岡県柳川市、熊本県阿蘇市などにあるようです。
また、奈良、伊予、阿蘇は、古墳の名前になっています。
読みは「しおつか」「しおづか」ですが、
古い書物には「しほつか」と書かれているものもありますね。

塩塚氏に関してですが、
筑後人物便覧では、
「塩塚石見守 山門郡塩塚城守備、元亀天正頃(南筑明覧)」
とあります。もちろん、塩塚城は、蒲池氏の出城(館)です。
また、今川家文書によると、
「鎮並簾中無詮方、塩塚左京ヲ頼、塩塚之城ニ被忍候、
 此左京ニ宗雪公舎弟、駿河守ノ子ナルヲ、塩塚石見無子故令養子候」
とあります。
駿河守とは、蒲池鑑盛(宗雪)の三男統安です。
そうすると左京とは、統安の子鎮貞となります。
塩塚石見守には、子が無く、鎮貞が養子になったということなので、
鎮並・統安の代には、蒲池氏とは別に塩塚氏が存在したと考えられます。
また、旧柳川藩志の寺社記事、「明官開の天満神社」には、
「同所産土神、蒲池鎮並の一族塩塚右左輔父鎮貞戦死後西蒲船津村の田島に居住す。
 因りて田島を冒す。剃髪して明勧と号す。慶長の頃塩塚村西浦乾潟築堤開地を賜い
 之に拠る。」
とありますで、鎮貞には、少なくとも一人は子があり、
塩塚の血筋としては絶えていないと考えられます。
この他には資料を見つけていませんので、右左輔以外の鎮貞の子のことや、
その後の塩塚氏のことは、よく分かりません。

現在、「塩塚」さんは、柳川市から大牟田市にかけてのエリアに
多くいらっしゃるようですが、
塩塚2さんの祖母方のように島原市周辺や(島原鉄道の社長も塩塚さん)
長崎市、五島市にもいらっしゃるようです。
長谷川さんの母方のように吉井に古くからいらっしゃるの塩塚さんは、珍しいと思います。
福益と塩塚では、藩が久留米と柳川に分かれますから、江戸時代以前に移られたのでは
ないでしょうか。

ちなみに、うちの実家の家紋は、二重輪に組み合い菱という
ひし形の枠が縦に鎖状になっている感じのものです。

以上、お役にたてれば幸いです。
 

私説公開

 投稿者:石垣眞人  投稿日:2008年12月13日(土)14時52分31秒
  「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。
 

龍造寺家晴の家臣の子孫の方

 投稿者:龍造寺家晴の家臣の子孫  投稿日:2008年 9月20日(土)01時00分52秒
  龍造寺家晴の家臣の子孫の方はいらっしゃいますでしょうか?
私の先祖は諫早市で龍造寺家晴の近臣だったと聞いています。
龍造寺家晴が柳川城から諫早城に移っでからの記録はあるのですが
柳川城時代の家来であったかどうかは不明です。
どなたか龍造寺家晴の情報を教えて下さい。
 

女子高生コンクリート詰め殺人事件

 投稿者:江戸の主婦  投稿日:2008年 6月 7日(土)19時33分55秒
     犯人を許さないで、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」

少年2人(横山裕史/当時は宮野、と湊伸治)が、東京都足立区綾瀬で、
夜8時過ぎプラスチック工場でのアルバイトから帰宅していた女子高生を
誘拐し、湊の自宅に40日間監禁しました。少年らは「御馳走してやる」
と言って仲間を呼び、女子高生を全裸で踊らせ、乱暴しました。
女子高生が逃げようとすると、体にオイルを塗って火を着けました。
彼女が泣き苦しむのを見て、彼らは笑い転げたそうです。
殺害された彼女の遺体は栄養失調、全身火傷、肛門などに瓶が2本も刺さ
ていました。少年らの服役期間は6年程度で、直に仮保釈されました。

横山 裕史(旧姓=宮野):S45年4月30日生 身長160cm
    平成19年 川口市蓮沼298 メゾンハイビス(栄ハイツ)201
湊 伸治:S47年12月16日生
    平成19年春まで寝屋川市で福祉の仕事をしていた。
    平成18年の秋リュヒテンシュタイン人(?)と結婚
渡邊 恭史:S46年12月18日生  横浜市?
      生活保護を受けて姉夫婦と同居する。母親=渡邊ヤス
相田 孝一(旧姓=垣東):S46生、妻と娘2人
    平成18年に長女が中学入学、このとき離婚し直ちに再婚
    妻の旧姓(相田)に改姓。 次女は来年小学校入学の年頃
神作 譲(旧姓=小倉):S46年5月11日生 再犯して服役中
湊伸治の家族 = 湊 靖人(父70歳)、湊 ます子(母60歳)
        湊 恒治(兄、S47年1月21日生)
 

URL変更通知

 投稿者:ごさんべえ  投稿日:2007年12月23日(日)21時20分55秒
  この度、「ごさんべえ」HPを移転させました。
迷惑メール対策です、仕方ありませんでした。
今後ともよろしくお願い致します。

http://gos.but.jp/

 

ちなみに

 投稿者:塩塚2  投稿日:2007年12月 6日(木)22時08分15秒
  曾祖父が調べていた家系図によれば、
先祖は嵯峨源氏ではなく、甲斐源氏(=武田氏)であるとのことです。
甲州信州には「塩」のつく地名が多いですからねぇ。
 

塩塚の由来

 投稿者:長谷川メール  投稿日:2007年12月 6日(木)17時33分55秒
  小塚さん、再度塩塚の由来の件、ご返事を頂きありがとうございます。塩塚城が塩塚という地名から名付けられたという事は、塩塚という名称自体がかなり古いものだということがよく分かりました。それだけでも僕にとっては非常に興味深い情報です。母方の先祖が地名から姓を名乗ったというのは残念ながらまず現時点では分からないですね。続けて調査すれば、いつかは地名の由来が分かるかもしれません。

 しかし塩塚2さんの情報からでは長崎の方でも塩塚の古い家系が残っているとの事。大変興味深いことです。母方の塩塚は筑後吉井の福益で暮らしており、僕がしっている限りで江戸時代の後期までさかのぼれますが、家紋は亀甲を二つ横に鎖のようにつなげた文様です。同じ家紋をもった塩塚が同じ村にもいるようですが、(お墓参りで見た)母の実家の塩塚とは縁がないみたいです。家紋もいろいろ調べましたが、うちのような亀甲の家紋は見た事がありません。実に家系が古いということは大変調べ甲斐がありますね。
 

RE:塩塚の由来

 投稿者:塩塚2メール  投稿日:2007年12月 4日(火)22時16分27秒
  以前この掲示板に投稿した「塩塚2」です。
私の姓は母方の祖母の家から受け継いだもので、
祖母の先祖の屋敷跡とお墓が現在も長崎県島原市にあります。
有名な島原武家屋敷の地図にも載っているので、江戸時代は
島原藩に出仕していたようです。
しかしながら家紋は蒲池氏の左三つ巴ではなく、武田菱です。
祖母の話によれば、先祖は島原藩主(松平家)が宇都宮(栃木県)に
転封されていた時期に宇都宮で召抱えられ、藩主の島原再転封に付き従って
宇都宮から島原へ移ってきたらしいとのことです。この説は旧制島原中学の
教師だった曾祖父の調査によるもので、家系図などの資料があったらしいですが、
戦争で焼失し今に伝わっていません。
蒲池氏の先祖が宇都宮の出であることから、何らかの関わりがあったのでは
ないかと曾祖父は認識していたようです。
福岡県の旧・大和町(現 柳川市)には「塩塚」の地名と「塩塚駅」、
「塩塚川」があり実際に訪問しました。「雲竜型」を考えた横綱「雲竜」
も本名は塩塚です。由緒ある名前が自分の姓であることをうれしく思います。
 

Re:塩塚の由来

 投稿者:小塚  投稿日:2007年12月 4日(火)05時57分47秒
  塩塚城は蒲池氏が領内の支城として室町時代に建てたものであり、それ以前には存在しなかったと思われます。
塩塚城の城主としてあげられるのは、柳川城にいる本家の蒲池鎮漣の弟になる蒲池統光とその子の蒲池(塩塚)鎮貞の二人でしょう。結果として、塩塚という苗字は、塩塚鎮貞一代だったと思われます。
塩塚城の名称の由来は、地名の塩塚にあります。
塩塚には、「史跡・蒲池鎮漣夫人他百八人殉難之地」(通称・百八人塚)があります。
ここで紹介されています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/b-044-tamatsuru.htm

江戸時代の塩塚という苗字は、塩塚城に関係のある蒲池氏やその一族としての塩塚ではなく、地名の塩塚に由来すると思います。
母方の生家の塩塚家が秋月藩家老とされる志鶴家と親戚とのことですが、志鶴家についてもよく分かりません。秋月藩の藩士録を調べれば何かが分かるかもしれません。

推測など述べても仕方ありませんが、江戸時代に塩塚村の庄屋になった時、塩塚と名のられたと思います。それ以前の苗字については、正しいかどうかは別とすれば、家伝の古文書でしか分からないのではないでしょうか。
 

塩塚の由来

 投稿者:長谷川メール  投稿日:2007年12月 3日(月)04時57分36秒
  小塚さん。さっそくのご返答恐れ入ります。写真で見た塩塚城の石碑の横にある大きな城の模型を見て、又あるHPで(鎮貞が塩塚の家督を継いだ)とあったので、単なる想像により塩塚姓の城主が塩塚鎮貞の前にもいたと思ったのですが、支城であったということは鎮貞だけがたまたま塩塚城主として名乗り、それ以前には城主がいなかったことになるのでしょうか。彼が討ち死にし家系が途絶えたということですが、塩塚としては非常に短い家系だったのですね。
又別の角度からの質問で申し訳ありませんが、この塩塚という城の名称の由来が分かればと思っております。僕の母方の家系の古文書云々にいついては又、伯父に聞いてみます。再度ご指導頂ければ幸いです。有り難うございます。
 

長谷川さん

 投稿者:小塚メール  投稿日:2007年12月 2日(日)14時15分57秒
  まず、塩塚城は、筑後15城の一つではありません。
筑後15城とは城のことではなく、城持ちの大身15家のことです。
当時の筑後は、豊後の大友氏の支配下にあり、筑後の大身15家は、大友氏に対して幕下衆として服属していました。
幕下衆とは、大友氏の家臣ではありませんが、軍事的に服属しているということです。
蒲池氏は、その筑後の大身15家を統括した筆頭家でした。
蒲池氏は嫡流の柳川の下蒲池と、庶流の八女の上蒲池に分かれ(下=西、上=東の意味です)、
双方とも本城の柳川城や山下城の他に領内にいくつかの支城を持っていました。
柳川の蒲池氏嫡流(下蒲池)は、本城の柳川城の他に蒲池城、蒲船津城その他の支城を持ち、塩塚城もそのような支城の一つでした。
その塩塚城を守っていたのが、蒲池氏16の代蒲池鑑盛の三男であり、17代の蒲池鎮漣の弟である蒲池統安の子の蒲池鎮貞でした。
蒲池鎮貞は、塩塚城から塩塚鎮貞と名のったようです。
塩塚城は、龍造寺氏との柳川の戦いで陥落し、蒲池(塩塚)鎮貞は討ち死にしています。
鎮貞には子はおらず、彼の塩塚家はここで消滅しています。
鎮貞の弟は僧籍にあり、柳川の戦いで蒲池氏嫡流が滅びた時に生き延び、その子孫は江戸時代は柳川藩の家老格になっていますが、蒲池姓であり塩塚ではありません(歌手の松田聖子の生家は、この柳川藩家老格の蒲池家の子孫です)。
塩塚城は、戦国時代の蒲池鑑盛の頃に建てられた支城であり、柳川の戦いの時に落城し、喪失しています。城主は、蒲池統安とその子の鎮貞だけでしょう。つまりその時点で、蒲池氏系の塩塚という苗字は絶えています。

長谷川さんの母方の塩塚姓は19世紀中頃、つまり江戸時代まで遡ることが出来るのであれば、地名の塩塚に由来するのではないかと思います。
大地主の家でしたら、何らかの古文書や家譜などが伝わっていないでしょうか。
 

塩塚の由来

 投稿者:長谷川メール  投稿日:2007年11月30日(金)06時25分28秒
  自分の母方の家系を調査しているところ、たまたまこのHPを見つけました。僕の母は旧姓塩塚で、筑後吉井の吉井町福益の出身です。戦前まではあの一体の大地主の家柄で、軍需工場に投資したため戦後財産を失ったときいています。僕の伯父によると、昔の豪族の家柄だということですが、母親の思いで話しからでも土蔵には戦の甲冑などが納められていたということですので、武家だったのでしょう。
又、この家系と深い姻戚関係があるのは志鶴家という家系で、これも又伯父によると、過去秋月藩の家老の家系だとのことです。僕は現在北米に在住中で、北米に住んでいる塩塚家の合同パーティーに招待され、少しでも塩塚の事を伝えられたらと思っています。何か少しでも塩塚の歴史が分かればと願っています。
蒲池家の歴史によると、筑後15城の一つ塩塚城を守り、蒲池鎮貞が塩塚鎮貞と名乗り家督を継いだとなっていますが、それ以前にも塩塚城は存在していたのであり、それ以前の城主も又塩塚といったのでしょうか。そうであれば、その家系はどこにいったのでしょう。僕の塩塚の家系は19世紀の中頃までしか分かっていません。歴史の知識のある皆様に分かる事があれば、幸いです。有り難うございます。
 

蒲池氏ゆかりの寺など

 投稿者:小塚  投稿日:2007年 8月21日(火)11時49分11秒
  福岡県柳川市東蒲池にある長寿院というお寺は蒲池右馬太輔繁久ゆかりの寺で、
往年の蒲池家の祈願所の一つだったようです。
たぶん、柳川から久留米にかけての地域を調べれば蒲池氏ゆかりの寺が無数にあると思います。
鎌倉時代から安土桃山時代まで、この地域の領主でしたから。

立花宗茂は良清寺の建立の際、蒲池一族で僧籍にあった応誉を招き、
応誉の子孫は蒲池氏の名跡を再興し、立花家の家老格の武家になりますが、
立花宗茂は自分の前にこの地域の領主だった蒲池氏については、
蒲池氏が大名家としては滅びた後も、それなりの処遇をしていたようです。
柳川の蒲池氏本家が滅んだ後に残った八女の蒲池分家も、蒲池鎮漣の従兄弟の蒲池鎮運の時に
豊臣秀吉の九州進攻に遭遇し、島津方にあったことなどから領地を没収されて滅びますが、
蒲池鎮運の人柄を知っていた立花宗茂が動き、鎮運は二千石の武家として再興し、宗茂の弟の
立花直次(高橋統増)の与力となっています。
ただ、宗茂は関ヶ原の合戦では西軍側にあって敗れ、直次やその与力である鎮運の子の蒲池重広(鎮広)も敗れて、いずれも肥後の細川藩預かりの身となり、重広は筑前の黒田藩に召し抱えられ、五百石の群奉行の家として明治維新を迎えています。

良清寺は、代々住職が蒲池家で、松田聖子さんの父親の蒲池孜さんも、良清寺の蒲池家の出で、
良清寺は、松田聖子さんの生家の蒲池家(現在の当主は聖子さんの兄の蒲池光久さん)の菩提寺でもあります。
 

良清寺と蒲池家

 投稿者:伊藤メール  投稿日:2007年 8月10日(金)21時01分34秒
    元和8年(1622)に立花宗茂の命により、寂性山良清寺(浄土宗)を建立し、ぎん千代の菩提を弔いました。
  開山は円蓮社応誉上人雲冏和尚にて、蒲池近江守鑑久の孫で瀬高上庄の来迎寺第4代住職で良清寺第1祖となります。
  その後、子孫が還俗して蒲池の家を再興し、寺侍として寺を守り、立花家の家老格の待遇とななりました。

  10年前に良清寺で松田聖子の実父の蒲池孜さんの法要があり、松田聖子が訪れたそうです。(三七日「みなのか」に納骨されたものと思います)
  良清寺の住職は堤さんで松田聖子の蒲池家とは遠~い親戚だそうです。
  なお、良清寺がある柳川市西魚屋町には蒲池姓の方はおられません。

  東魚屋町の本光寺(真宗東派)の住職が蒲池さんです。入り口は細工町通りにあります。
  峯山本光寺は蒲池左馬太輔鎮久の子美濃守貞久(鑑並の甥)が蒲池家滅亡後菩提供養のため蒲池の中村に寺を建立して開祖となり、立花家が家小路に移し、田中吉政が藤吉に移した。寛永2年に現在の東魚屋町に移されたとあります。
 

立花 ぎん千代の墓

 投稿者:伊藤メール  投稿日:2007年 8月10日(金)13時21分10秒
    2007年 8月 9日投稿日は、漢字の「門の中に言」が表示されず_千代となっていましたので仮名書きで「ぎん」として再度投稿します。

  熊本県玉名郡長洲町腹赤に、柳川藩主 立花宗茂正室 ぎん千代の墓があります。
  長洲港から熊本方向に国道389=501号を進み沖洲交差点を左折し腹赤小学校を過ぎ福栄中学校の手前左側約50m付近に「ぼたもちさん」と書いた案内標識が立っています。
  ここから左に折れ農道を約50m歩くとぎん千代の墓があり「光照院殿泉誉良清大姉」慶長7年(1602)10月17日と書いてあります。「長洲町指定文化財」
  墓石の上の部分が「牡丹餅」に似ている為、いつの頃か「ぼたもちさん」と呼ばれるようになったそうです。

  慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」ぎん千代は徳川へ味方するよう宗茂に進言したが宗茂は西軍に付くものの東軍が勝利し立花家は改易され加藤清正に預けられました。
  宗茂は申し開きのためぎん千代に無断で江戸へ向かいました。
  地元長洲の伝承ではぎん千代気が狂い、慶長7年に古井戸に身を投げて亡くなったという。

  20年後の元和6年(1620)に柳川再封を果たした立花宗茂は城下に寂性山良清寺を建立しぎん千代の菩提を弔いました。
  寛永11年(1634)6月、33回忌に宗茂は、腹赤村(長洲町腹赤)に役人を遣わせて、この墓所に供養塔「ぼたもちさん」を建立し腹赤より良清寺に改葬されました。
  68歳となっていた宗茂が若い頃のぎん千代に対する仕打ちの悔いの念であったとか。
  なお、寛永9年(1632年)、加藤家は幕府の命により改易になり肥後熊本藩は細川家となっています。
  良清寺が建立されてから10年以上経って腹赤より良清寺に改葬したのはなぜでしょう。
  柳川に藩祖・道雪と宗茂、ぎん千代を祭神として祀った三柱神社がありますが、ぎん千代は、父道雪の眠る福岡県新宮町立花口梅岳寺に葬られたかったのではないでしょうか。
 

地福寺_追記

 投稿者:伊藤メール  投稿日:2007年 8月 8日(水)15時46分31秒
   喜見山地福寺の佛像は、本尊の阿弥陀如来と、脇侍の観音菩薩、勢至菩薩の三体の他に地蔵菩薩と月光菩薩があります。
  境内にある五重塔は蒲池家の墓とされており、 蒲池鎮蓮の墓といわれている宝篋印塔は破壊をおそれたのか無銘です。
 地福寺は慶応年間(1865~1868)には浄土宗から曹洞宗永平寺の末寺となり、寺地六畝二四歩あったそうです。
 現在は、檀家も少なく住職もいないため近く住民が管理しており佛像の拝観は困難です。
 本堂は痛んでおり佛像の盗難のおそれもあるため大規模な改修が必要な状態で、管理している地元の人も困っており、蒲池一族による寄進を期待されます。

  大牟田市~大川市にかけ現在工事中の有明沿岸道路(国道208号BP)に接続する国道385号BPの工事が行われています。
  道路は崇久寺及び蒲池城跡の西側近くを通過する計画で、新たな遺跡の発見が期待されます。
 

伊藤さん

 投稿者:小塚  投稿日:2007年 8月 3日(金)11時49分15秒
  柳川を中心に下筑後(筑後西南)地方には、蒲池氏所縁の寺院が数多くあります。
ただ、その多くは、蒲池氏を謀略で滅ぼした龍造寺隆信により徹底的に破壊し尽くされました。
おそらく龍造寺隆信は、蒲池鑑盛に助けられ、保護された痕跡を抹消したかったのでしょう。
その後、再建された寺々も、明治の廃仏毀釈により、かなり破壊されたようですね。

松田聖子(蒲池法子)さんの生家は、蒲池鑑盛の三男の蒲池統安の子孫で、
江戸時代は立花ぎん千代の菩提寺の良清寺を預かり、立花家の家老格だった武家であることは
はっきりしています(柳川市にある福岡県立柳川古文書館その他で確認出来ます)。
良清寺の歴代住職は蒲池家から出ており、現在の住職は聖子さんの伯父さんです(あるいは
最近、代が変わっていたなら住職は聖子さんの従兄弟になります)。
しかし、もう一人の坂井泉水(蒲池幸子)さんについては、久留米出身で、
蒲池姓ということから、同じ蒲池一族にはなるのでしょうが、蒲池鑑盛以前に
別れているのではないかと言われているそうですが、正確なことは分からないようです。
 

地福寺と蒲池鎮蓮の墓

 投稿者:伊藤メール  投稿日:2007年 7月28日(土)14時52分2秒
   西鉄柳川駅から400~500mの柳川市三橋町高畑(たかはたけ)に地福寺があります。
  場所は立花うどんと西鉄線路の間にあり狭い路地を歩いてゆきます。

 地福寺は、天正年間(1573~1592)に、寛海(かんかい)という僧が開基したと伝えられています。
 本尊は阿弥陀如来と、脇侍の観音菩薩、勢至菩薩の三体で当時、この地方を治めていた蒲池鎮漣(しげなみ)が寄進したと言われています。また、鎮漣の父鑑盛(かまちあきもり)、隠居後に住んでいた場所とも伝えられています。

 境内には室町時代から安土桃山時代に作られた宝篋印塔と聖衆来迎図線刻の板碑、丸彫式の六地蔵塔があり、いずれも柳川市指定の文化財になっています。
  宝篋印塔は蒲池鎮蓮の墓といわれています。

  地福寺は小さな寺で明治時代に寺領を失いかなり荒廃しており、寺を守っている地域住民は松田聖子さん(蒲池法子)にでもチャリティーコンサートを貰わないと維持できないといっています。

  2007年5月27日に亡くなられたZRAD/坂井泉水こと蒲池幸子さんは、久留米市出生とされ、蒲池氏一族のどちらの子孫かご存じの方はおられますか。
 

小生さん

 投稿者:小塚  投稿日:2007年 1月22日(月)23時15分26秒
  まず、ここは「蒲池(かまち)」氏の掲示板であり、「浦池(うらち)」氏のそれではありません。

蒲池氏と首藤氏の関係でいえば、蒲池氏の最後の柳川城主だった蒲池鎮漣(鎮並)の嫡子の
宗虎丸(蒲池久鎮)の名跡を継いだ蒲池鑑続の母方の生家が首藤氏です。
蒲池鑑続の子孫は、鑑続のひ孫の蒲池久一の子の久成が首藤を名のっています。
その子孫は、後に蒲池に復姓する者も多く、蒲池氏子孫の主要な一族を形成しています。
 

浦池氏と関係ありますか?

 投稿者:小生  投稿日:2007年 1月18日(木)00時51分45秒
   ちょっと質問があります。
首藤氏は浦池氏と関係ありますか?
あるなら、どの辺から浦池氏と関係を発生したでしょうか?
知ってる方教えてください<m(__)m>
 

諫早の蒲池氏

 投稿者:小塚  投稿日:2006年12月28日(木)04時51分7秒
  諫早さん
「私の先祖はどうも、諫早家臣団にはそれとは別に蒲池姓だと最近分かったのですが」
この文章は、意味が正確にたどれませんが、諫早家臣団の蒲池氏とは別の蒲池姓ということでしょうか。

諫早家臣団における蒲池氏は、蒲池貞久に始まります。
蒲池貞久は、幼名を熊千代といい、蒲池鑑盛の長男の蒲池鎮久の子です。
蒲池鎮久は落胤だったため、鑑盛の後を継いだのは、鎮久の弟の蒲池鎮漣(鎮並)でした。
鎮久は、蒲池家の家老として鎮漣を補佐し、鎮漣と共に肥前において龍造寺隆信により謀殺されます。
柳川の戦いの時に、鎮久の子の熊千代は塩塚におり、農家に匿われて生き延びたようです。
柳川に進駐したのは龍造寺家晴であり、彼は、龍造寺氏にとっては大恩ある蒲池氏を
皆殺しにせんとした龍造寺隆信とは距離を置き、蒲池鑑盛の血筋をひく熊千代こと蒲池貞久を家臣にします。
その後、龍造寺隆信が討ち死にし、佐賀の実権が鍋島直茂に移った時、龍造寺家晴の一族は、
諫早に移り、鍋島藩の諫早家となります。この時、蒲池貞久の子孫もまた諫早に移ります。
貞久の子孫は、龍造寺隆信の生存中は、蒲池残党狩りから逃れるために龍造寺家晴の指示で公文姓を名のり、
公文兼久のひ孫の兼忠が蒲池に復姓しています。
諫早家臣団の史料によると、蒲池兼忠の孫の師勝が、蒲池久憲の元の苗字である宇都宮姓を名のっています。
ただ、諫早家臣団には、宇都宮氏と蒲池氏があり、宇都宮師勝以外の一族は、蒲池姓を継いだようです。

諫早家臣団における蒲池姓の簡単な消息は以上のようなものですが、諫早家臣団以外の蒲池姓も、
おそらく、その一族ではないかと思います。
 

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